さて、戸中をぬけ片辺七曲がりをおりると、安寿伝説で有名な、鹿の浦に出ます。ここは、現在北片辺に住む鹿野家が開いた土地です。
境川という戸中と片辺を分ける川。「毒が流れる日に3度」と歌われた中の川。そして、安寿の母が臼を擦っていたという「擦り臼川」。この地の上には鉛山があったといわれ、この鉱毒により離村したといいますが、かつて中の川遺跡を発掘したとき、河川氾濫の跡がありましたから、これによるものかもしれません。
手前には安寿塚がありますが、元は鹿野家の地神である十二神社です。いつのころから、ここが安寿の舞台になったのかはわかりません。正徳年間(1711年)には母親が佐渡に、子供は丹後の山椒太夫に売られたとあるだけで、鹿の浦の鹿の字も出てきません。が、宝暦年間(1750年)頃になると、この地の名前が飛び出します。そして、天保年間(1830年)には、川路奉行は順村の時この地を訪れ、そのようなことをしかねるような風貌と海府の者を指しています。
一方、50年後の文化年間に畑野で安寿の祠を建てたいと願い出たところ、不届きであると取り壊された事例があります。
<つづく(ところで写真は・・・)>
2004-06-11 | おんごろべ