享和2年(1802)。この年は大雨出水が多く、相川では銀山通りに被害が出ました。また、稲作の出来も良くなく、米価も上がったので酒造りに廻す米を半分にしなければなりませんでした。
11月15日朝の8時ごろ、大きな地震が発生しました。
相川では、奉行所や人家に被害は無く、銀山内の甲坂が崩れた岩で塞がれた程度。 それでも、午後の余震では、鳥越間歩付近の岩山が崩落し、あたりは土煙で暗夜のようになりました。
ところが・・・・・・
小木が大変なことになっていました。
地役人であった蔵田茂樹が、天保11年(1840)江戸で知人に様子を語ったことが記録されています。かなりリアルなので、それを紹介しましょう。
私が5歳の時、袴着の祝い(七五三のことで、海府ではヒボ<紐>直しといいます)のため、父とともに小木の木崎神社へ行きました。
神社には、私と同じように、袴着の祝いのため大勢の人が集まっていました。
時は、霜月の望の日。
空の色が、にわかに怪しげな気配に変わりました。
雨雲も手に届くばかりの近さで、みんなは何事だとばかり騒ぎ始めました。と思ったとたん、
ドッカン!!
地面が激しく揺れました。
社があっという間に傾き恐ろしくきしみ、大地が打ち返すように揺れます。
みんなは、世の中が消滅してしまうとばかり泣き叫び、逃げようとしても立ち上がれず、階段から転げ落ちていきます。
私も同様に転げ落ちたところ、社の柱が揺り動き、地面に大きな隙間が出来ていた所へ危うく落ちそうになりましたが、父が引き上げてくれたので、柱とその隙間に挟まれもせず、命拾いをしました。
父は私を背負い、近くの山に逃げ込みましたが、あたりの人々も同じ所へ避難しました。家々は揺り倒れ、あちらこちらから火が出ていました。人が大勢亡くなり、牛馬も数え切れないほどでした。後で見ると、小木湊ははるか沖まで干潟になっていました。
この地震の震央は小木半島で、被害も小木の潰屋44軒・焼失家屋203軒・半壊20軒・死者19人を始めとして、金丸の潰屋32軒・潰長屋32軒・半潰屋12件などの外、新町・河原田・皆川・船代など国仲南部一帯161か村に及び、倒れた家732軒、傾いたり壊れた家は1423軒を数えました(『小木町史』)。
縄文時代まで海水域だった国仲は、弥生時代以降堆積物によって人が住めるようになりました。これを金丸層というのですが、これらの地域に被害が集中しています。
ちなみに『月刊海洋科学』日本海中部地震津波の羽島徳太郎氏は、地震規模をM6.8としています。
また、新町から赤泊まで隆起してしまったため、舳先が岩礁にぶつかるので、小舟による磯ネギ(漁)が不可能となりました。
それで、羽茂などでは味噌桶を作る技術がありましたから、桶を半分にして(半ギリといいます)、磯ネギに用いることにしました。これが、タライ舟の始まりです。
さらに、小木の内の澗も隆起によって干上がってしまいましたが、これを田んぼにしてしまったのは、なかなかコーシャなものです。
蔵田茂樹は大人になってから、この光景をこう詠みました。
舟よせし みぎはのをじまおも影に
いまも稲葉の波ぞかかれる
その後余震が続き、翌年8月2日には大きく揺れました。そして、1年たった11月14日、数回大きく揺れてからは、おとなしくなりました。
8月23日から9月17日まで佐渡測量のため伊能忠敬一行が逗留していましたが、この間は目立った余震はありません。でも、小木半島を測量した伊能は、この変貌した地形を興味深く眺めたことでしょう。
ちなみに、上越から小木半島にかけて、地震の空白域があるとして、観測強化区域になっています。
ところで、仄聞によれば佐渡市の新役所の建築予定位置は、金丸の近くだとのこと。
おえーっ、
大丈夫だかやぁ〜〜〜
ヤボン按じるが・・・・・。
・・・という訳で、次回は、天保4年庄内沖地震大津波です。
2005-01-07 | おんごろべ