天保4年10月26日、新暦でいえば12月7日。朝から大雨で、昼頃にはアイタバ風(東風)が吹き始めてきました。
申の上刻といいますから、午後3時頃でしょうか。大きな揺れが佐渡を襲いました。
震源地は、庄内沖。『月刊海洋科学』日本海中部地震津波の羽島徳太郎氏は、地震規模をM7.6としています。庄内地方では、全半壊475軒、死者42人を出しました。
1時間もたたないうちに、海の様子がおかしくなってきました。
もしかして、津波???????
岩谷口では、じわりじわりと海面が上がってきました。
ある家の納屋の雪隠前まで、海が押し寄せてきました。その家の前は、広い広い砂浜が広がっていて、およそ海抜10mくらいのところに建っていたのですが・・・。
第2波は、玄関前までやってきました。
第3波は、座敷脇まで上がってきました。
その家の主人は、関や五十浦、願・鷲崎を始め、高下・田野浦でも被害が出たと聞きました。
一方、相川府中でも2〜3町も海が干上がったので、海辺の町々の者共は「津波が来るぞぉ〜」と、恐怖に打ち震えながら、高台へ避難しました。
すると高波が数度打ちあがり人家の裾をぬらしましたが、少々被害を受けた程度で、幸い潰れたり流れたりした家も無く、けが人もいませんでした。
けれども、夷・湊口は大変なことになっていました。『続古地震(東大出版会)』で大川村の史料が紹介されています。
それによれば・・・・
大川村では、波は午後6時頃まで、浜通りから石垣まで6〜7枚上がりましたが、村の鎮守の津神大明神のおかげで、さしたる被害も無く、漁舟もみんなで引き上げることができました。
ところが羽丹村から湾の奥に行くにつれて、地震の揺れも津波も大きく、夷・湊両町へは大津波が上がり、海辺の舟小屋は全て流失。中でも城之腰の海方通りの家々は、みんな打ち潰れてしまいました。
また、御番所の近く夷町問屋の700石積みの大船を引き上げていたところ、津波に驚き松並木4〜5本に碇綱をかけ流れないようにしていましたが、午後6時頃の津波で川の端に落ち込み、次の波で加茂湖に流れ込んでしまいました。
住吉村でも流れ家があり、鷲崎村では大半が、願村でも25軒中20軒が流失してしまったとのこと。
それ以外にも、漁舟の流失は数知れず、百年も前にも津波があったが、これほど大きなものは、初めてのことでした。
前掲の羽鳥氏によれば、水津村で2m、鷲崎で4〜5m、相川で3〜4m。U字型に広がる両津湾の奥にある夷・湊では、なんと8mに及んでいます。
そういえば、昭和39年6月16日の新潟地震の津波でも、同地区には、被害が出ていました。
さて、庄内地方では、津波による溺死者は38人にのぼり、能登の輪島でも47人が溺死。
佐渡では0人でしたが、それでも大きな被害が出ました。
『佐渡年代記』によれば・・・・・
田畑用水破損20箇所
流失家79軒 高下・北田野浦・石名
潰家12軒 関・五十浦・岩谷口
破損家屋135軒 真更川・北鵜島・願
流失・潰納屋136軒 鷲崎・住吉・羽黒
破損納屋119軒 加茂・夷・湊
潰蔵各1箇所 腰細・徳和・赤泊
流失雑穀蔵各1箇所 小木・八幡・河原田
板橋流失各2箇所 鹿伏・石田・市野沢
小舟流失40艘
同破損3艘
庄内地方の死者は、たぶん逃げる間もなく津波に襲われたものと考えることができますが、輪島のそれについては、素人ながらこのように推理しました。
まず、震源から遠いので、揺れを余り感じなかった。
しかし、津波は佐渡を通過することによって波が重なり、一層高くなった。いわゆる 「レンズ効果」によって威力が増した。
この2点だと思います。
したがって、昭和58年5月26日の、日本海中部沖地震の際の輪島港のあのシーンも理解できると思います。
一方、その時の津波災害で隠岐や朝鮮半島が被害を受けましたが、これは日本海の中央にある大和堆がレンズとなり、津波のエネルギーを収束させたために発生させたといわれています。
これまでの津波でラッキーだったのは、震源地の地殻破壊が本州側に沿って起きたため、津波のエネルギーを正面から受けなかったこと。また、比較的海がおだやかだったという、偶然が重なっていたことです。
しかし・・・・・・・
もし、
暴風波浪警報発令中で
最大波高9mの時
津波が襲ってきたら!!!
昨今の流行で、避難勧告を出すのが遅いとか、聞いていないとか、情報がね〜と、おじゃまんたんゆー暇があったら、とにかく高台に。
危機をいち早く知る立場にあるのはあなたです。
とにかく、自ら危機管理のスキルを高めることが必要です。
なんちゃって・・・
<何を気色ばってゆうとんのん。米の飯がドタマに上ったとはワレのこっちゃ!!!>
<いえ、米の汁です・・・>
お後がよろしいようで・・・
2005-01-14 | おんごろべ