海士町の漁師孫八さん達が、大野亀沖で火煙をはきながら近づいてくる黒船に肝を潰した嘉永2年(1849)からさかのぼること41年前、文化5年(1808)ロシアの船が北海道付近に頻繁に出没していました。
当時の記録では「ヲロシア船蝦夷地嶋々江来り狼藉に及び候に付き・・・」とあり、脅威に感じた幕府は、佐渡奉行の任務に北方警備を加えることになりました。
この時の奉行は、土屋長三郎正備。
彼は文化3年に目付役琉球人参府御用からの転入でした。
ばりばりのキャリアでした。
オロシャ船なら千艘こようとままよ
土屋長三郎さんこにゃよかろ
張り切る御奉行様は、一朝有事の節には、国中筋からは人足840人、相川筋からは850人を動員、具足175セット、三百目筒4・百目筒6・五十目筒8・長槍86筋を江戸より配備してもらうことになりました。
ま、カタログ数値としては、なかなかのものなんですが、三百目筒なんてのは、口径が3cmあるかないかぐらいのものですし、ボン!!とやっても数百メートル飛ぶのがやっと。
百目・五十目にいたっては、抱えて撃つやつですから、ま、ほとんどが戦力外。
加えて、具足もたりないので、武士であるはずの奉行所の役人達は、島内の有力商人がコレクションしていた物を借りる有様。
・・・・・・・
ただ、佐渡島民の負担だけは増加しました。
そのくせ、有事即応マニュアルはきっちり作っています。
ひと〜つゥ、
見慣れぬ船を見かけたら、寺鐘を撞いて隣村に異常を知らせる。
ひと〜つゥ、
この鐘が聞こえた村は、次々と鐘を撞いて相川まで知らせる。
ひと〜つゥ、
この鐘が聞こえた村は、人足3人を村境で待たせ、注進状を遅滞なく継ぎ送りさせる。
ひと〜つゥ、
注進状は、有り合せの物でよいが、「海上何里程沖合い何村何方に相当たり見慣れぬ船相見え候 何月幾日何の刻 何役 何の誰」と記述し、これを3尺ばかりの竹先に切れ目を入れたものに挟み、こよりにて注進状が落ちぬように結び付け、達者な人足を手代に声を掛けながら継ぎ送る。
ひと〜つゥ、
注進状を持ち送りした村は、早速ありあわせの布で幟を作り、村の出口に立てる、夜ならばその場所に火をたく事。幟ができなければ、竹や木の枝に紙を多く結びつけて目印とすること。
「あの〜村びと1号ですが・・・五月の節句の時には、あちこちで幟を立てる家がセッペこと(多く)あるんだけも、そげんときはどげんしるんだの」
いいことに気が付きましたね。そんなときには、このようにしましょう。
ひと〜つゥ、
そんな時は、村の出入り口に立てる幟の上に、紙を多くつけた竹や木の枝を結びつけること。
はあ〜???出来の悪いガキの、夏休みの計画書みたいなマニュアルで、自由に動きまわる黒船に対抗できるゥ〜〜???
それじゃ、どっかの市役所みたいに手続きばかりで、仕事なんかできゃしねーじゃねーか!!!!バシッ!!
こんな話を思い出しました。
こんじなの戦争の時の話です。
海府の話です。
「警戒警報発令」
インターネットも、ケータイもありません。
隣のムラまでフレ番です。
夜間発令されると、提灯片手に、えっちらおっちら夜道を岬や山道を歩きます。
「おるかえ〜警戒警報が発令されたっちゃ」
すると、そのムラでも同じように、提灯片手にえっちらおっちら・・・
はぁ〜やれやれ、フレ番は終わったし、はよう戻ろう。えっちらおっちら、夜道を山越え。
はぁ〜やっとこ家に着いた。
「お〜い。もろったりょ〜」
「おえ〜どげんしる。いま、警戒警報解除だっちゅうが」
「・・・・・・・・」
インターネットも、ケータイもありません。
また、隣のムラまでフレ番です。
提灯片手に、えっちらおっちら・・・・・・・
おい、どげでもええけも、海士町の孫八さんはどげんしたんだ。
あ!!わすれとった。
孫八さんの事を書きます。
御奉行様お触れでは、「漁業に罷り有り候者も、洋中に見慣れぬ帆影を見かけ候はば、 早速不備なく相届けるべく」とあったことを孫八さんは思い出しました。
孫八さんは、真更川の浦目付に駆け込みます。その時、マニュアル通りの文案が脳裏 をかすめていたかどうかは、知る由もありません。
続きます。
おいおい。やぼんひっぱるねーか。
・・・・・・・・
バカボンドみてーだが。
・・・・・・・・
文は荒いし、間はいまいちだし、休んだ分、キャラもたってないし。
・・・・・・・・
「英国機不時着始末記」のうけをねらっとんだねーか?
ドキッ!!
2005-06-19 | おんごろべ